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お城シリーズ2

◇評価 10ポイント
◇閲覧回数 7,016
◇登録日
2010年6月7日

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前回の岡崎城に続き、清洲城の紹介になります。
地元に住んでいながら、一度も足を運んでいませんでしたが、今回初じめて
足を運んできました。
電車で毎日見ていますが、近くに行くと意外と大きい(無論、姫路や大阪にくら
べたら格段に小規模ですが)イメージです。復元されており、城主は現在なんと
アイススケート選手の織田信成さんと知り驚きです。


まずはお城の説明から。ウィキペディアの力をお借りして・・

応永12年(1405年)、尾張・遠江・越前守護の管領斯波義重によって築城。当初は、
尾張守護所である下津城の別郭として建てられたが、文明8年(1476年)に守護代
織田家の内紛により下津城が焼失し、文明10年(1478年)に守護所が清須(=清洲)
に移転することで尾張国の中心地となった。一時期、「織田弾正忠家」の当主織田信秀
が清須奉行として居城した以外は常に清洲織田氏(織田大和守家)の居城としてあり、
尾張下四郡を支配する守護代織田家の本城として機能した。

織田信秀が、古渡城に拠点を移すと守護代織田信友が入城したが、弘治元年(1555年)
織田信長によって信友が殺害され、以降信長が那古野城から移って大改修を加えた後、
本拠として居城した。信長は、桶狭間の戦いに出陣するなど、約10年間清須に居城した。
1562年(永禄5年)には信長と徳川家康との間で同盟がこの城で結ばれた(清洲同盟)。
永禄6年(1563年)には美濃国斎藤氏との戦に備えて小牧山城に移り、以後は番城となった。

天正10年(1582年)の本能寺の変で信長がたおれると、清洲城にて清洲会議が行われ、
次男・織田信雄が相続した。天正14年(1586年)に信雄によって2重の堀の普請、
大天守・小天守・書院などの造営が行われている。小田原合戦で信雄が豊臣秀吉にさからい、
除封され、豊臣秀次の所領に組み込まれた後、文禄4年(1595年)には福島正則の居城となった。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの折りには、東軍の後方拠点として利用され、戦後は
安芸に転封した福島正則に代わり徳川家康の四男・松平忠吉が入るが、関ヶ原の戦傷が
もとで病死すると慶長12年(1607年)には家康の九男徳川義直が入城し、清洲藩の本拠となった。

だそうです。

写真1 キャノンパワーショットG10 フルオートショット
これだけ快晴ですと、フルオートでもしっかりと発色し、綺麗な描写になっています。
石垣の前にかがんで下からあおっています。これはコンデジならではのテクニックです。



写真2 キャノンパワーショットG10 フルオートショット
天守閣から、庭園を撮影。これもコンデジならではの携行性がなせる技です。
一眼ならできませんよね。網の間からちょこっとレンズを入れて撮影。
滑り落ちる感じを表現してみました。



写真3 キャノンパワーショットG10 フルオートショット
尾張名古屋の名物「しゃちほこ」名古屋城と異なり金シャチではありませんが、中々
立派です。反対側は光りが強すぎたので、あえて日陰のしゃちほこを撮影してみました。


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