時は豊臣政権下の安土桃山時代。
武将・大谷吉継はハンセン病に侵されており、
体や顔からも膿が出るほど重いものだった。
ある時、豊臣諸将が招かれ、お茶の回しのみをする茶会が開かれた。
吉継がハンセン病に侵されていることは周知の事実であり、
吉継が口をつけた茶碗は病気の感染を恐れて誰もが嫌い、
飲むふりをするだけであった。
しかし、石田三成だけは普段と変わりなくその茶を飲み干し
(一説には吉継が飲む際に顔から膿が茶碗に落ちたとか、
鼻水が落ちたとも言われる)、吉継に気軽に話しかけてきた。
三成は義の男であり、
そんなつまらない事で人の面子を潰す事はしたくなかったのである。
驚いたのは他ならぬ吉継だった。
吉継は茶会の後、屋敷に帰って悔し涙したが、
その中で三成の心意気に感動し、以来三成との友情を堅く誓ったという。
関ヶ原の戦い前夜、
吉継は、家の存続の為に家康に近づき、家康自身も、
吉継の実力を知っていたので、吉継が徳川方に付く事を歓迎した。
だが、友である石田三成は家康打倒に燃えていた。
吉継は世の流れを説き、これが無謀であると三成を諌めた。
吉継には、家康の実力がわかっており、勝ち目が無い事を悟っていたのだ。
しかし、三成の決意が揺るがないことを知った吉継は、
家康の誘いを断り、友の為に命を捨てることを選んだ。
三成率いる西軍の中で、本気で東軍に立ち向かったのは
大谷吉継の軍だけだったと言われている。
次第に崩れ行く西軍の中、吉継は最期まで家康の東軍に抵抗し、
西軍の負けが決定的になると、自害し果てた。
家康に恨みがあるわけでもなく、参加する必要のない戦に参加し、
友情に殉じた武将・大谷吉継。
この逸話は後の世まで英雄談として語り継がれていったのである。