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北海道大周遊part3 11

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2013年9月18日

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写真1
EOS5Dmark2 28-300mmF3.5-5.6ISUSML F4 SS1/40 50mm ISO1000


写真2
EOS5Dmark2 28-300mmF3.5-5.6ISUSML F4 SS1/40 50mm ISO1000


写真3
EOS5Dmark2 28-300mmF3.5-5.6ISUSML F4.5 SS1/40 40mm ISO640


写真4
EOS5Dmark2 28-300mmF3.5-5.6ISUSML F4 SS1/40 40mm ISO500



ウィキより
南極への航路1956年(昭和31年)11月8日 日本は国際地球観測年に伴い南極観測を行うこととなり、南極観測船が必要となった。国鉄の宗谷丸などの候補が選定され、砕氷能力や船体のキャパシティは宗谷丸のほうが勝っていたが、改造予算の問題や耐氷構造、船運の強さ(魚雷を被弾するも不発弾で沈没を逃れた等)を買われ、宗谷が南極観測船に選定される。大幅な船体補強と耐氷能力の向上を主眼とした大改装(牧野茂/戦艦大和の設計者のひとり)を日本鋼管浅野船渠で受けた。

初代南極観測船として、東京水産大学(現東京海洋大学)の海鷹丸を随伴船に従え南極に向け出港。1957年(昭和32年)1月29日 南緯69度00分22秒・東経39度35分24秒オングル島プリンスハラルド海岸に第1次南極地域観測隊が昭和基地を開設、宗谷がプリンスハラルドに接岸の間、「プリンスハラルド宗谷船内郵便局」が船内に置かれた[22]。帰路に厚い氷に閉じ込められたが、当時最新鋭艦だったソ連の砕氷艦「オビ」の救援により辛くも脱出に成功。砕氷して進む「オビ」号とは、後ろをついて進む宗谷が離されないように注意しなければならないほどの性能差であったという。

その後も宗谷は1958年(昭和33年)にアメリカの砕氷艦「バートン・アイランド」号、1960年(昭和35年)に「オビ」号の救援を再び受けている。宗谷はその後派遣回数と同じ回数の修理・改装を繰り返し、通算6回の南極観測任務を遂行した。日本の南極観測は、文部科学省・国立極地研究所が中心となって1956年(昭和31年)よりおこなわれている。1982年(昭和57年)からは三代目となる南極観測船「しらせ」を用いて南極地域観測隊の人員および物資の輸送や観測を行ってきた。初代「しらせ」の後継艦については当初20,000tの排水量を予定していたが、予算問題の関係から初代「しらせ」の11,500tより一回り大きな12,500tとなった。排水量の増加により物資輸送量が約100t増加し1,000tから1,100tになった。先代と同様に複数名の医師と歯科医が同乗しており、居住性を改善しながら搭乗可能人数を増やすことも可能となった。

砕氷能力を向上させた独特の曲面形状の艦首や、砕氷補助設備として船首散水装置など改良された砕氷設備を備えている。南極観測船の搭載ヘリは「タロとジロの悲劇」以来出来るだけ高性能なものを配備しており、しらせでは大型機のCH-101を2機、小型機のAS355を1機の計3機搭載する。AS355は中日本航空に運用が委託されている。推進方式は先代しらせ同様にディーゼル・エレクトリック方式を採用した。出力は先代と同じ30,000馬力だがパワーエレクトロニクス技術の進展により電動機はPWMインバータで交流電動機を駆動する方式となった。艤装を勤めた初代航海長は「統合電気推進と言える」とコメントしている。貨物積降時間の短縮を可能としたコンテナ方式の荷役システム、砕氷力の向上と船体塗装剥離による海洋汚染の防止を目的とした喫水付近のステンレス外装、新型ヒーリング(横揺れ防止)装置といった新機能も導入された。艦内設備は南極の環境保全のために廃棄物処理用システムが充実されており、南極観測基地からの廃棄物持ち帰りもおこなわれている。
予算の問題によりしらせの退役と本艦の就役までの間に1年の間隔が空いた。そのため2008年(平成20年)の50次観測隊では文部科学省がオーストラリアから民間砕氷船「オーロラ・オーストラリス」をチャーターし利用した。この砕氷船は先代「しらせ」によってビセット時に救助されたことがある。

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