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北海道大周遊編56

◇評価 5ポイント
◇閲覧回数 3,587
◇登録日
2012年5月23日

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大通り公園2

写真4
canon5Dmark2 35-350mmLUSM ISO100 SS1/160 F8  焦点距離35mm

威風堂々の雰囲気です。


写真5
canon5Dmark2 35-350mmLUSM ISO100 SS/200 F9  焦点距離35mm

ベンチを写し撮るのにいったい何枚シャッターを切ったのでしょうか?


写真6
canon5Dmark2 35-350mmLUSM ISO100 SS1/200 F10  焦点距離35mm

地面にカメラを置いて非日常の目線で撮影しました。


以下ウィキ
札幌の街路には、1872年(明治5年)9月18日に北海道の国郡名が与えられ、今の大通りには後志通の名が与えられた。しかしこの呼び名は普及せず、1881年(明治14年)6月、「札幌市街名称改正」で条丁目制が導入され、大通という名称になった。

明治から第二次世界大戦まで、戦前の大通公園西1丁目には豊平館が、西2丁目には電話局がせり出しており、他の部分より幅が狭かった。西3丁目、西4丁目付近は当時から街路の中心で、市の中心の広場として多目的に利用された。1878年(明治11年)に西2丁目と西3丁目に第一回農業仮博覧会の会場が設けられ、これ以後各種催しの会場になった。

西に行くと町の賑わいはなくなり、西10丁目以西の部分は屯田兵の練兵場であった。屯田兵が廃止になると、近隣の学校の運動会が開かれたりしたが、明治の末に大通に組み入れられた。大通の利用度は低く、ゴミ捨て場や雪捨て場に
なっていた。市の中心部に広い土地を放置していることを問題視する意見は多く、宅地などへの転用を求める運動が何度かおきたが、結局実現に至らなかった。

1876年(明治9年)に、西3丁目、西4丁目に二千坪(約6600m2)の花壇が作られた。さらに1909年(明治42年)に造園設計家の長岡安平を招いて逍遙地としての整備を行ったのが、大通公園のはじまりとされる。戦後の公園整備 [編集]第二次世界大戦中に大通はイモ畑にされた。戦後、食糧事情が好転すると、畑地はなくなったが、かわりに再びゴミ捨て場、雪捨て場になった。大通の一部を進駐軍が接収して野球場とテニスコートを作った。これにならって民間も運動場を作った。返還後は他にも大通り西側にさまざまな運動場が作られた。

進駐軍から大通が返還された1950年(昭和25年)から、公園としての整備が再開された。その年以来、造園関係の業者に一定のスペースを割り当てる方式で多数の花壇を作っている。花壇の前には担当の会社名を記したプレートがあり、季節ごとにさまざまな趣向で花壇造りの技を競う。なお、1988年(昭和63年)にはさっぽろ・ふるさと文化百選に選定された。

各部分の概要
西1丁目から西13丁目まで、南北約65メートル、東西約110メートルの長方形が東西に連なる。西1丁目が一番東で、数字が増すごとに西方になる。この区画は幅4メートルの歩道で囲まれ、さらに車道で囲まれる。行き来には横断歩道を使わねばならない。規則的配置の例外が二つある。西1丁目は区画の面積が他よりやや小さい、西8丁目と西9丁目は現在連結している。


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